聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

新しい門出

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妻たちよ、主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。妻に対して辛く当たってはいけません。

コロサイ人への手紙 3:18-19
 
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数年ぶりに結婚式に参列した。

互いに愛し合う2人が結婚を披露する場面に招かれること、これほどの喜びはない。

どんな2人にも出会いから、愛が芽生え結婚を決意するに至るまで、オリジナルのストーリーがある。最近は披露宴でショートムービーのように紹介してくれるから、感情移入しやすい。

おまけに年齢を重ねるに連れ涙腺も緩くなるものだから、いとも簡単に泣けてしまう。

1つだけ、あった方がよかったなと思うのが「誓い」である。いや、あるにはあったのだが、人前式だと参列している人たちを証人として誓うことになり、これがどうもしっくりこない。

本日、私たちは皆さまの前で結婚の誓いをいたします。 今日という日を迎えられたのも、私たち2人を支えてくださった皆さまのおかげです。 これからは2人で力を合わせて困難を乗り越え、喜びを分かち合い、 笑顔あふれる家庭を築いていくことを誓います。 未熟な2人ではありますが、今後とも末永く見守っていただければ幸いです。

で、一同拍手、それで証人というわけだ。

ただ、人に誓いを立てるのは実に儚いと思う。もちろん結婚を否定するのではないから、誓います!と言われたら、喜んで拍手はする。

人前で誓わずとも婚姻届を出せば結婚は成立するのだから、そもそも「誓い」はパフォーマンスなのかもしれないという思いもある。

こうしたこの世の考えを思い巡らしながら、クリスチャンの結婚のことを考えていた。

新郎A、あなたはBを妻とし、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいとにも、これを愛し敬い慰め合い共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?

私も20年前に教会式で、この誓いを神の前に立てた。

教会にも参列者はいるが、あくまで夫婦となる2人が神の前で誓いを立てたことの証人であり、2人が結婚したことの証人ではない。

いま改めて文字で読み返してみると、過ぎた日々を振り返り、この誓いを守れているかと自問してしまう。

簡単にできることを誓っても意味がないから、ムリなのは分かるけど、目指すべき方向として人生を照らす灯のように掲げているのかもしれないなと思った。

さて、コロサイの信徒に向けて記された夫婦の務めは至ってシンプルであった。

妻には「クリスチャンに相応しく夫に従うこと」を、夫には「妻を愛し辛く当たってはいけないこと」を奨励する。

ここにある「相応しく」が一番大切である。

相応しくといっても、いろんな意味がある。人によって解釈もさまざまだから難しいが…。

迷ったら、WWJD = What would Jesus do? と問い掛けたらいい。

私たちには相応しさの模範としてイエスキリストが与えられている。聖書に描かれているイエスの教えや行動から、クリスチャンとしての相応しさを知ることができる。

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。(マタイ22:39)

誓ったからと言って、愛することを自分だけでやろうとするのではなく、また相手に求めるのでもなく、イエスに倣い、言葉と行動に相応しさを纏えるように。

初々しい2人の姿を見ながら願う。

我力に頼らず、神さまの力に依り頼むことができますように。