イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。
ピリピ人への手紙 1:11
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聖書を読み始めて間もない頃、聞き慣れない日本語に戸惑うことがよくあった。
なかでも「義」の理解は難しかった。
日本語では、アタマにつければ義務や義理、後ろにつければ正義や仁義のように、たいてい熟語として使う。
辞書で調べてみると「正しさ、妥当性」とあった。それは筋を通すことであり、道理のことである。
しかし、そう定義してしまっては、「義」とは、ただ道徳的に間違っていないことであり、例えば「あなたは罪を犯したことがありますか?」と聞かれたら「これまで人様に迷惑をかけたこともないし、警察の世話になったこともないから、罪を犯したことなどありません」のように、きっと多くのひとが答えるだろう。
そうしたら誰もが容易く「義」を手に入れることができる。
私たちの神が求める義は、そんなものではない。聖書には「義人はいない、一人もいない(ローマ3:10)」と書いてあり、この世に「義」と言える人などいないと断定されているのだ。
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こう言うと、キリスト教の神さまは厳しすぎるとか、心が狭いとか思われるかもしれない。
そもそも「義」の概念が異なるのだから、それは仕方ない。キリスト教では、私には義があります、私は義人ですと、自分で宣言するものではないからである。
アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記 15:6)
このように「義」は神が認定する。
キリスト教用語では「義認」と言う。どうしたら認定されるかと言えば、アブラハムは主を信じたとあるように「神を信じます」と宣言するのだ。
私は正しい!と宣言するのではなく、私は神を信じます!と宣言すれば、あなたは正しい!と、神が宣言されるのだ。
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今日の聖句では、キリストによって「義の実」が与えられる、とある。
直前の箇所を辿っていくと、なんとなくわかってくる。
あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。(ピリピ1:9-10)
義の実とは、正しいか正しくないかを見分ける(識別する)力であった。
この見分ける力こそ、私たちがこの世で生きていくために必要な力であり、物事を正しく見分けることができる人が義人なのだろう。
少しでもそうありたいと願う。
与えられた義の実に満たされて、それによって神の素晴らしさを現す者であるようにと。