聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

怒りについて

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怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
 
エペソ人への手紙 4:26
 
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怒り、憤り。
 
喜怒哀楽というように、怒りもまた、私たちに備えられた立派な感情である。
 
旧約聖書を読めば、義人と言われる人であっても、怒りに我を忘れてしまう事例をたくさん見つけることができる。
 
たとえばダビデ
 
ダビデは感情表現が豊かで、怒りも多いが、よく笑いよく泣いた。個人的には、そうした豊かな感情を持つダビデに好感を持っている。
 
そのダビデの怒り。
 
ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。
(第二サムエル 13:21)
 
ここでのダビデの怒りはごもっともな理由なのでまだいいのだが、一方で理不尽に怒る場面もある。
 
ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。
(サムエル記 第二 12:5)
 
前後の文脈からいって、この怒りは、怒りそのものは正しいが、それはナタンの思惑通りであったから、恥ずべき怒りでもあった。
 

 
さて、旧約聖書には、神の怒りも幾度となく示されていて、そこだけを切り取って読むと、怒りの大きさや深さにたじろいでしまうほどである。
 
たとえば、終末預言として記されているエゼキエル書にはこのような聖句がある。
 
今、間もなく、わたしは憤りをあなたに注ぎ、わたしの怒りをあなたに出し尽くす。あなたの生き方のとおりにあなたをさばき、あなたのすべての忌み嫌うべきわざに報いる。
(エゼキエル 7:8)
 
しかし、神の怒りは聖なる怒りであり、怒りに我を忘れたり、理不尽に怒るのでもない。
 
新約聖書ではイエスの怒りも記されている。
 
エスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。
(マルコ 3:5)
 
エスの怒りもまた聖なる怒りであり、理不尽さは欠片もない。
 
怒りに我を忘れるわけではなく、適切にコントロールしており、不正や悪行に対して正義をもって怒っておられる。
 

 
そう、聖書を読んで、怒りについて分かっていても、わきまえをもっていると自覚しても、それでも私たちは、瞬間湯沸かし器のごとく、一瞬で怒りに取りつかれ、我を忘れてしまう。
 
世の中には、アンガーコントロールやアンガーマネジメントが存在しており、書籍を読めば、怒りとの正しい向き合い方や、付き合い方がわかる。
 
さすがにビジネスの現場で、しかも営業職であればなおのこと、お客に対して怒りを露わにすることはない。
 
けれど、社内では、怒りっぽい人がいるし、怒りを上司に向けてくる人もいる。交渉材料に使ったり、それによってマウントを取ろうとしたりする。
 
そうした場面に直面するのは苦しいものだ。自分の怒りやすい気質は棚上げして、ああはなりたくないなどと独り言ちたりする。
 
聖書にはこうも書いてある。
 
私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
ヤコブ 1:19)
 
遅く怒る。つまり、あとで怒ろうとする、ということ。
 
たいていの軽い怒りであれば、それで随分、気持ちが落ち着くし、怒ってること自体がどうでもよくなってくるものだ。
 
それで対処できない大きな怒りは、もう祈るしかない。
 
主よ、怒りで自分をコントロールできません。この怒りを鎮めてください。怒りに我を忘れた自分を取り戻せるように助けてください。
 
それしかない。