あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。
申命記 8:5
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マタイの福音書4章を読んだ。
4章の1〜11節には、イエスが荒野で試練を受けたこと、いわゆる「荒野の誘惑」が記されている。
よく知っている場面だと軽く読み返したのだが、重大な読み間違いをしていたことがわかった。
それは冒頭の箇所であった。
4章1節から3節はじめまでを丁寧に読んでみる。
それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。
(マタイ4:1-3a)
ここで大切な箇所は3つある。2つは知っていたが、3つ目を見落としていた。
2つは何かというと、イエスが荒野に行ったのは「悪魔の試みを受ける」ためであったことと、イエスを荒野に連れて行ったのは「御霊に導かれて」であったこと。
荒野の誘惑は、とかくサタンとイエスの問答に焦点が当たりがちで、それは当然のことなのだが、そこに至る前提を正しく押さえておかねばならない。
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私が読み違えていたのは何かというと「そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った」にある「その後で」と「すると」の2語である。
悪魔の誘惑は40日の断食期間中のことだと思っていた。
しかし、そうではなかった。40日の断食を終えた「その後で」イエスが空腹を感じた、「すると」悪魔が近づいて来たのであった。
悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野に行ったイエスは、その目的も神の意図も分かっていた。ただ、神であると同時に人でもあるイエスは、私たちと同じようにお腹が空くのだ。
空腹、これほど辛いものはない。
空腹を満たしたくて、私たちは我を失うことがある。判断力や理性を保てないこともある。そのタイミングで空腹を満たすような提案をされたとしたら、あっさり屈してしまうだろう。
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イエスは悪魔の誘惑に屈することはない。
みことばをもって悪魔の誘惑に対抗し、退けた。イエスが用いたみことば、それが旧約聖書の申命記である。
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きる。(8:3)
あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。(6:13)
あなたがたの神である主を試みてはならない。(6:16)
イエスはこれら申命記のみことばを引用しながら、モーセがイスラエルの民を導いた荒野の40年間と、自らの40日間を重ねていたことだろう。
主がモーセを、そしてイスラエルを訓練したように、イエスもまた父なる神から訓練を受ける。
それを覚えるとき、私たちもまた日々起こる試練に対して、主が与えた訓練であると認識することによって、それを乗り越えることができる。
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
(第一コリント10:13)